MENU

キャリこれ

やりちらかす中で、新しいキャリアの芽が育つ【前編】

PICK UP

連載記事

2023.4.18


大きな社会的テーマとなって久しいミドルシニアの働き方。定年や役職定年・・・そんな既成のルールを軽々と超えた、一人ひとりの働き方やキャリアが生み出されてこそ、組織や社会はもっとイキイキしたものになる。そんな「三方よし」の実現を目指してキャリアのこれから研究所が立ち上げた「超年齢プロジェクト」。その理念を体現されている方々にインタビューさせて頂くシリーズがスタートします。
第1回は、キリングループの企業内大学キリアンアカデミアの事務局メンバーとして精力的に活躍されている森美江さんです。男女雇用機会均等法第一世代としてのご苦労を乗り越えた「したたかな」キャリア戦略をぶっちゃけて頂きました。
プロフィール画像

森 美江(もり・よしえ)

1966年生まれ、筑波大学卒。89年、キリンビール入社。大阪支社勤務後、食品事業部。95年、キリンアンドコミュニケーションズ出向。医療事業本部、人事総務部、お客さま相談室などを経て2021年からマーケティング本部勤務。国家資格キャリアコンサルタントの取得、昭和女子大学社会人メンター、ライフシフト・ジャパンのパートナー登録など社外活動を広げている

 

■執筆
酒井 章(キャリアのこれから研究所プロデューサー)
緒方 雪絵(株式会社日本マンパワー マーケティング部)

1.男女雇用機会均等法の第一世代

まず森さんの大学での専攻についてお話し頂けますか?
親や親戚からは「教員免許は絶対に取れ」と言われていたので、元高等師範学校の筑波大学なら文句を言われないだろうと思って大学を選びました。でも教師にはなりたくなかったので、教員免許が取得できる言語学を専攻しました。

入社されたのは、どのような志望動機からでしたか?
文章を書く仕事をしたくて出版社や情報系の新聞社を受けたのですが狭き門で・・・。そこで、ワインやヨーロッパの食文化に興味があったのでビールメーカーに志望を切り替えました。

入社して最初の配属はどちらでしたか?
大阪支社の酒屋さん向けの営業職に配属されました。入社の数年前に男女雇用機会均等法が施行され、当社にも4年制大学卒の女性が入社するようになっていました。大多数の女性社員は一般職でしたが、同じ女性でも「総合職だとどう違うのか」を試す雰囲気があり、それまで女性が配属されなかった営業ができるか試してみよう、という会社の意図があったように思います。
また、当時、土井たか子さんが社会党の党首になって、女性ブームのような追い風がありました。当時は家族経営の、いわゆる「町のお酒屋さん」を担当しており、お酒屋さんの奥様から「おたかさんを見習って女性も活躍しないとね」と背中を押されたことが印象に残っています。

男女雇用機会均等法第一世代としてのご苦労はありましたか?
女性で営業をやっていれば、社内では誰でも4年制大学卒だということがわかるのですが、その後内勤の企画の仕事をしたときは、「あなたはどっち(短大卒か四大卒か)?」といちいち聞かれて面倒くさい思いはありましたね。

2.産休育休と女性活躍推進プロジェクト

グループ会社に出向後、2002年に産休育休を取られたわけですね。
はい、それによって復帰後「戦力外通告」を受けたような気分になりました。当時、男性の同僚や管理職の奥様は、ほとんどが専業主婦でした。そして、子供を保育園に預けて働くということが、社内ではまだ当たり前ではなかった時代でした。
息子が小さい頃はワンオペ育児だったので、保育園から呼び出しの電話がくると仕事を中断してお迎えに行かなければなりませんが、専業主婦の奥さまがいる男性や独身者は残業もできて、いつでもどこでも出張できます。「制約社員(働く場所や時間、従事する仕事内容などの労働条件について何らかの制約をもつ社員)」も当時は圧倒的に少なかったのです。
当時、残業や出張ができる人とそうでない人の区別がはっきりしていました。今の状況に例えると、会議室に集まって議論する会議に私だけが自宅からオンラインで参加している、そんな疎外感がありました。
産休育休を取って10年後、「キリンウィメンズネットワーク」という、いわゆる女性活躍推進プロジェクトに参画する機会を頂きました。社内の女性にヒアリングをして社長に提言するという取り組みでしたが、提言のテーマとして選んだのが「女性が出産後もキャリアを諦めずに働き続けられる風土づくり」でした。私が出産した20年前には既に女性が出産・育児を乗り越えて働き続ける環境は整っていましたが、いわゆるキャリアアップができる環境が整っていませんでした。

次の女性総合職のために、という思いがおありでしたか?
それもあったかもしれません。結婚してこれから子供を産もうとか、子供が小さい時期でもキャリアアップできるのか、という悩みを抱える時期に差し掛かっていた年下メンバーたちと一緒にこのテーマに取り組みました。

そこには、どのような想いがありましたか?
当時、社外取締役になった資生堂の元副社長の岩田喜美枝さん(※)からお話を聞かせて頂いたことがありました。これからは労働人口が減っていくので夫婦共働き世帯が当たり前になって家事や育児を男性も負担せざるを得なくなり、誰もが働く時間に制約が出てしまう。一方ミドルシニア社員は高齢化社会により親の介護が発生し男性も例外ではなくなってくる。更にダイバーシティが推進されると、残業が無制限にできる社員の方がマイノリティになる世の中になっていく、という内容でした。
残業ゼロで所定の勤務時間内で働き成果を出すことが前提であれば、育児中の女性や病気や介護を抱えている人も平等に同じ土俵で働ける。そのような中で、誰もが能力を発揮できて正当に評価されるような社会を作っていかなければいけないというお話を聞いてとても共感しました。
だからこそ、「女性が出産後もキャリアアップできる風土」にならないと社内の女性活躍や優秀な女子学生を採用できない、という提言につながったと思います。

※岩田喜美枝さん 官僚出身の実業家。厚生労働省雇用均等・児童家庭局長を経た後、民間企業へ転身。資生堂代表取締役副社長、キリンホールディングス株式会社監査役等をつとめる。公益財団法人21世紀職業財団会長を歴任。

3.「次は何しよう」と考えて行動する原動力とは?

40歳の節目で受けたキャリア研修が、キャリアの転機になったそうですね?
弊社では、30歳、40歳、50歳の節目で全員がキャリア研修を受けます。いわゆるセルフキャリアドック研修です。40歳で受講したとき、私は不安になりました。自分の中に「キャリアの軸がない」ことが分かったからです。
研修の中で「キャリアアンカー(自らのキャリアを形成する際に最も大切で、他に譲ることのできない価値観や欲求)」を質問に答えて確認したところ、自分のキャリアアンカーが無いし、突出しているものもなかったんです。「ちょっとこれ、このままでは定年まで働けないな」とショックを受けました。
何を自分の軸として働いたらいいのか、これからどうしようかと焦りを感じました。そのとき、気がついたら自分の「キャリアの棚卸し」をやっていました。それでわかったのは、「私は人と関わる仕事がしたい」ということでした。上司の理解もあり、それから約10年間、社員研修や人事関連の部署で働くことができました。

それ以来、ずっと学ばれ続けていらっしゃるのですか?
息子が小さかった頃は学ぶ機会も余裕もなかったのですが、息子が成長し、時間ができて学びを再開する中で「次は何をしよう」と考えて行動する習慣ができていったように思います。
業務上取らなければいけない衛生管理者、防火防災管理者やメンタルヘルス系の資格も取り、グロービスマネジメントスクールにも社内公募に手を挙げて通わせて頂きました。
そのような中、国家資格になった初年度(2016年)にキャリアコンサルタントの受験をしました。実は私、「第1号」が好きなんですよ(笑)。資格の初年度はちょっと試験が簡単だったりするし「初年度にとったんです」と後々ネタになるかなと思って(笑)。
日本マンパワーさんのキャリアコンサルタント養成講座の説明会にふらっと参加したところ、説明を伺って即受講したくなったのですが、スクーリングの開講日が近く「もう満席で」と言われました。そう言われると何がなんでも受講したくなって(笑)、マンパワーさんの営業の方に「どのクラスでもいいからとにかく受講したい」とお願いしたら数日後「空きが出ました」と連絡があり受講できることになりました。何と、その時の養成講座の講師が田中稔哉先生でした。

「次に何を学ぼう」と思って行動される原動力は何なんでしょうか?
キリンを辞めて仕事があるのか心配で仕方がないんですよ。新卒からずっとキリンで働いていて転職したことがないので。なので、会社員の今のうちに副業で社外に出てみようと思って活動しています。定年まで働こうと思っていますが、もう30年以上働いてきたので、ご縁があれば定年を待たず卒業してもいいかなとも思っています。退職後は自分が好きなことを仕事にしたいと思っています。
一方、自分がやりたい方向性はなんとなくわかっても、これ!という確信がまだ無いのが正直なところです。なので、いろいろ活動して、何が本当に好きなのかを、いろいろ試している感じです。