人的資本経営の広まりとリスク
今や、この言葉を見ない日が無いほど急速な広がりを見せている人的資本経営。現在の動きは、2020年8月にアメリカ証券取引委員会(SEC)が人的資本の開示を上場企業に義務付けたことから発しています。加えて、企業の価値に占める「無形資産」の割合が、この数十年で飛躍的に増していることも背景にあります。
一方日本では、2020年に経済産業省「持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会」による報告書(人材版伊藤レポート)」の発表に続き、2021年6月のコポーレートガバナンスコード改訂や人への投資を重視する方向を明言した2022年1月の岸田首相・施政方針演説、更に経産省による人的資本経営コンソーシアムの発足、と急速に動きが加速して来ました。これに伴い、改めて「キャリア自律」が多くの企業で叫ばれる状況が訪れています。
「人こそが財産」という本質に立ち還ったこの方向性は歓迎すべきですが、その一方、有価証券報告書や統合報告書への数値開示が目的化したり、その本質を把握しないまま運用されたりすることで、企業で働く社員のキャリアが“自己責任化”するリスクもはらみます。その先には、組織や企業の空洞化と衰退化の道が待っているのかもしれません。
そのような状況を生まないためには、より俯瞰的で多角的な視点を持つ必要があります。そのヒントになるのが、「『株主資本主義』から『ステークホルダー資本主義』への転換」という考え方です。
「株主資本主義」から「ステークホルダー資本主義」へ
新型コロナに代表される、VUCAの時代が現実化した現在、改めて「行き過ぎた資本主義」への反省が切実なものになっています。先だって、NHK Eテレ「100分de名著」でも紹介された「ショック・ドクトリン」は、その象徴とも言える新自由主義の暴走を明らかにしました。
この反省から、改めて見直されているのが株主に留まらず、顧客・取引先・従業員などの利害関係者(ステークホルダー)にまで視野を広げて経済活動を行うとする「ステークホルダー資本主義」という理念です。これを提唱したのは、世界経済フォーラム(ダボス・フォーラム)の創設者であるスイスの経済学者 クラウス・シュワブで、50年前の1971年に遡ります。しかし、当時はあまり注目されず、その後も、アメリカ大統領 ロナルド・レーガンによるレーガノミクスやイギリスのサッチャー政権が主導する形で新自由主義が世界を席巻しました。
しかしいま、ステークホルダー資本主義は、行き過ぎた資本主義への反省や気候変動、テクノロジーの進化、あるいは1970年当時とは比べものにならないほどにステークホルダー領域が多様化したことなどによって見直され、更に進んだあり方が求められています。これを受け、世界経済フォーラムは2020年の年次総会において「ダボス・マニフェスト2020」を作成し、「第四次産業革命における企業の普遍的目標」を掲げました。
投げかけられる「問い」~人的資本主義経営という潮流の中で~
さて。この考えを提唱した時のことをシュワブはこのように語っているそうです。
「70年代に日本に初来日した際、ステークホルダー資本主義の考え方は日本の経営者にとても温かく迎えられた」(「ステークホルダー資本主義」序文より)
そこには、長期的な視点や三方良しといった伝統を持ち、この考えを本質的に理解する日本の土壌がある(あった)のではないでしょうか。人的資本経営も同様で、欧米発というよりも、そもそも日本に適したものであり、加えて現在の日本の事業環境や企業風土に根ざしていかに取り入れるのかを考える必要がありそうです。
また、シュワブは自著でこのようなことも言っています。
「企業は経済の中で活動しているが、株主、地域社会を中心に構成され自然の生態系に根差した人間の営みでもあるのだ」(「グレート・ナラティブ」より)
人的資本経営という潮流は、日本企業が「人こそが財産、組織は生態系」という本質的な理解と実践が企業に浸透することで、世界に範を示し競争力を回復するのか、あるいはその本質が見失われて空洞化と衰退の道を辿るのか・・・、その分岐点となるのかもしれません。
こうした問題意識に基づき、本連載では多様なステークホルダーとの「対話」や、企業における最前線の実践事例を取材し、以下のような問いを投げかけます。
企業は、キカイかイキモノか?
そもそも企業とは何のためにあるのか?
人的資本経営は、誰のためのものなのか?
あなたやあなたの会社にとって「人的資本経営」とは何か?
どうか、ご期待ください。
執筆者プロフィール
酒井 章(株式会社クリエイティブ・ジャーニー代表、キャリアのこれから研究所プロデューサー)
広告代理店を退職後、起業。同時に武蔵野美術大学造形構想研究科修士課程に入学。研究テーマは「先見の明のある人財のキャリアのデザイン、組織のデザイン、社会のデザイン」。同大学院修了後、引き続き京都芸術大学芸術研究科(超域ラボ)で現代アート視点から「働くひとの芸術祭」構想を研究し修了。
キャリアのこれから研究所プロデューサー。美大の大学院に飛び込んで
自ら創造性の再開発を実験中
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