「人的資本経営」という言葉が定着し、多くの企業で成長志向の人材戦略が進められています。その一方で、AIの進化が、人と組織の関わり方そのものを急速に変えつつあります。こうした二つの変化のただなかで、組織とそこで働く人が、互いに成長できる人的資本経営のかたちとはどんなものなのでしょうか。
『AI時代の人的資本経営』(日本総研 ポスト人的資本経営研究会&先端技術ラボ著)は、この問いに正面から向き合った一冊です。人事コンサルティングに携わり、同研究会のメンバーとしてこの本の執筆陣の一人に加わった髙橋千亜希氏と、日本マンパワー代表取締役会長の田中稔哉が、これからの時代に求められる人と組織の関わり方について語り合いました。
(取材・構成 石澤 寧)
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『AI時代だからこそ、人が活きる キャリア自律を支える「AI×HI」の実践』
1.「人的資本経営」という言葉の普及の利点と問題点
田中:
『AI時代の人的資本経営』、大変興味深く拝読しました。読みながら思ったのは、人的資本経営という言葉は、「経営」という言葉が付く時点で、どうしても組織側からの視点を脱却しづらいところがある、ということです。本来、人と組織は対立するものではないはずですが、目的の比重が組織の側に置かれやすい。この点について、髙橋さんはどうお考えですか。
髙橋:
ありがとうございます。まさにそこが、今回の書籍で問いかけたかったことです。
少し私自身の話をしますと、大学院では臨床心理学を専攻していて、もともとはカウンセラーを志望していました。ただ、個人へのアプローチより、組織へのアプローチのほうが波及する範囲が広いのではと考えて、今の仕事を選んだんです。
田中:
私も、最初の仕事は人事でしたから、その感覚はよく分かります。
髙橋:
だからこそ、組織の仕組みを考えるときも、そこで働く一人ひとりを見失いたくない、という思いが強くあります。人的資本経営という考え方が広く浸透してきていること自体は望ましいことですが、おっしゃるように、経営側の視点に寄りすぎているのでは、という問題意識を私たちも持っていました。
もちろん、企業価値の向上を目的とするのに、経営側の視点が欠かせないのは言うまでもないですが、従業員を「企業価値を高めるための投資対象」とだけ見るのは適切ではありません。企業が投資にリターンを求めるのと同じように、従業員側も、その企業で働くことでしか得られない成長や働きがい、キャリアといった、有形無形のリターンを求めているはずです。そうした従業員側が求める価値にも応えなければ、持続的な成長は叶わないのではないか。こうした問題意識がありました。

株式会社日本総合研究所 リサーチ・コンサルティング部門シニアマネジャー
高橋 千亜希 氏
田中:
私も、人事部長や経営者の方とお話しする機会が多いのですが、「なぜ人に投資するのか」という話になると、企業の価値向上や持続的な成長のため、という答えになることが多いと感じます。
髙橋:
そうなんです。私たち自身、こうした違和感を掘り下げていく中で、「本当の意味での人的資本経営とは何なのか」を、改めて問い直すことになりました。企業の成長には、従業員の成長ややりがいが欠かせません。それを、企業がどれだけ従業員に与えられてきたのか。そんな問いが、自然と浮かび上がってきたんです。
その問いに対する答えの鍵となるのが、AIとの関係だと思っています。AIを積極的に活用しながらも、「何を目指し、何を選ぶか」は人間が担う。AI×HI(ヒューマンインテリジェンス)の掛け算によって、企業価値と従業員価値をともに高めていく。
従業員のやりがいや成長に応えるには、これまで以上に、一人ひとりと向き合う必要があります。ただ、年々忙しくなる人事部にとって、それは既存の業務を減らさなければ実現できることではありません。だからこそ、AIに任せられる業務はAIに任せ、人事パーソンが本当に考え、向き合うべき業務に集中することが必要ではないか。こうした考え方を軸にした、これからの時代に求められる人的資本経営のかたちを、書籍を通じてお伝えしたいと思いました。
2.HIがなぜ必要とされるのか
田中:
AI×HIという考え方には、とても関心があります。実は弊社でも、AIを活用したキャリアコンサルティングのシステムを開発している最中なんです。企業内のキャリア支援にAIがどのように活用できるのかは、まさに今、私自身が向き合っているテーマでもあります。髙橋さんがこの考え方に至った経緯をもう少し伺えますか。

株式会社日本マンパワー 代表取締役会長
田中 稔哉
髙橋:
はい。先ほどお話しした、企業価値と従業員価値を両立させたいという思いに加えて、もう一つ、AIの進化に対する危機感も背景にありました。AIの進化は、人事部の役割や人材に求められる能力そのものを大きく変えつつあります。ただそれが、AI対人間という対立構造として捉えられてしまうことに危うさを感じています。そうではなく、AIができることと、人間にしかできないことを両立させ、掛け合わせることで、従業員価値を高められないかと考えたのです。
知識や、答えを持っているだけでは、もはや価値がありません。人材としての価値は、もっと別のところに移ってきている。具体的に言うと、今何が問題になっていて、どんな課題を解くべきかを見極める力。複雑な問題を、構造化して捉える力。AIに的確な情報を与えて、必要な答えを引き出す力。AIが示す答えを、批判的な目で判断できる力。それを実際の人間社会に落とし込んだときに、共感を得られるかどうか。そして、白黒つけられない曖昧さを受け止める力。そうしたことが、議論の中で何度も話題になりました。今改めて整理すると、「問いを立てる力」「意味付けする力」そして、「意思決定する力」といったものが、AI時代の人材に必要とされる能力、ということになるのかもしれません。
田中:
その「人間に求められる力」を、「HI」という言葉に集約されたのは、どういう経緯だったのでしょうか。
髙橋:
これらの力を突き詰めると、それは結局、「人間が人間関係の中で培ってきた知性」なのでは、という話になったんです。これらはAIでは代替できないものです。その人間ならではの知性の呼び方を考えた際に、ヒューマンインテリジェンスという言葉がちょうどいいということになって、AI×HIという表現にまとまっていきました。
3.近年の人材マネジメントの変化・トレンド
髙橋 :
少し話を広げたいのですが、実際にキャリア支援を主導しておられる立場の田中さんは、ここ数年でどのような変化を感じていらっしゃいますか。
田中:
先ほど私も申し上げた通り、人的資本経営の議論は、経営側の視点に偏りがちなところがあります。ただ、キャリア支援の現場では、個人を重視すべきだと考える経営者が、少しずつ増えてきているという実感もあります。もちろん、まだ全ての経営者がそうというわけではありませんが、この変化自体は、人的資本経営の一つの大きな成果だと思います。
一方で、少し気になる変化もあります。キャリア支援の現場では、面倒なことを避けて、AIで手早く答えを見つけてしまう人が増えているように感じます。それ自体が悪いわけではありませんが、特に大きなキャリア選択の時に、最初からAIを使って、あまり熟慮しないまま仕事を選んでしまう人も目立ちます。生成AIの活用は、就職活動や転職活動の場面で、ほぼ百パーセントに近く広がっている印象です。この数年で、キャリア支援の現場に与えたAIのインパクトは、それだけ大きいと感じています。
髙橋さんの方では、どのような変化を感じていらっしゃいますか。
髙橋:
人事部長クラスの方や経営者の方々にお話を伺っても、おっしゃるような変化を感じます。以前は、キャリアを作る主権は人事にあって、標準的なキャリアパスに人を乗せていくような、一律管理の発想が強かったと思います。それが今は、一人ひとりにフォーカスして、その人の価値をどう引き出すか、という発想に変わってきています。これは、人材版伊藤レポートの影響もあると思います。
そして事業環境の変化が速まり、必要な人材やスキルも頻繁に変わる中、AIがその変化をさらに加速させている。こうした状況では、従業員を会社の型にはめるというやり方では、もう間に合わなくなってきている。社員が自ら選べる選択肢の多い会社ほど、働く人から選ばれる時代になったと感じます。
数年前までは、個人へのキャリア支援について、従業員に迎合しすぎではないか、という声が上がり、対等な関係のはずだと伝えても、なかなか理解してもらえないこともありました。それが、この4、5年で急速に当たり前の共通認識になった。そんな感覚があります。

田中:
まさにそうだと思います。この5年ほどで、金融機関やインフラ系のような保守的な大企業でも大きな変化が見られます。かつては、従業員の前でキャリアの話をすることに抵抗を示す会社もありました。それが今では、同じ会社が副業を認め、キャリア相談室を設置するまでになっています。会社側で人的資本経営への理解が進んだ面もあれば、労働力不足で、リテンションに配慮しないと人材が流出してしまう、という現実的な事情もあると思います。一人ひとりを見なければ、組織に支障が出る。そんな時代になってきたと感じます。
4.「人的資本社会」という視点
髙橋:
こうした変化を目の当たりにされて、田中さんご自身は、人と組織のこれからの関係について、どのようにお考えですか。
田中:
繰り返しになりますが、人への投資は、企業の価値向上や持続的成長のためのもの、と語られがちです。しかし私は、そこを一度、個人の側に振り切ってみたらどうだろう、と思うのです。個人が成長できる場や環境をつくることそのものを目的にして、その結果どうなるかは、いったん手放してしまう。そうした環境が実現すれば、成長を望む社員も辞めないでしょうし、結果として企業へのリターンもついてくるはずです。ただ、目的をどちらに強く置くかという点で、経営者は難しさを感じているのだと思います。個人の成長に全力を注いでも辞められてしまうかもしれない、と考えてブレーキがかかってしまいますから。
そこで大事になるのが、人に対する信頼だと思います。仮に育てた人材が離れていくことがあっても、それでいいと思えるかどうか。今回の書籍には、そうした人や人間性に対する肯定的な見方がベースにあると感じました。この見方を土台に置くことで、経営側も人への投資や環境整備に踏み出しやすくなるのではないでしょうか。
言い換えれば、「人的資本経営」という経営を主語にした視点から、「人的資本社会」という、社会を主語にした視点への転換です。そもそも社会は人で成り立っているわけで、人材は社会的な資本でもある。極端に言えば、自社で活かしきれない人材が社外に出ていくことも、社会全体で見れば必要なことかもしれません。今は人手不足で、なかなか難しい面もあるとは思いますが、人は社会のものであって、会社だけのものではない。そういう理解に基づく経営が、これから広がっていくといいなと、聞いていて思いました。

髙橋:
人的資本社会という視点、とても共感します。ここから先は、まさに書籍の中でも書いた、AIとHIをどう機能させるかという話につながりますね。
田中:
ぜひ、そこを詳しく伺いたいです。AIと人間、それぞれの役割をどう分担するのか。人間同士の対話に、どんな意味があるのか。企業は何を整えるべきなのか。考えるべきことは、これからたくさんあると思います。
エン・モア合同会社代表。編集者/ライター。ビジネス誌のインタビューを中心に幅広いテーマの記事を執筆。
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